パルプ・フィクション エゼキエル書25章17節について 解説&考察

アクション

映画パルプ・フィクションには意味深なシーンが多く、そのほとんどは結局何だったのか最後まで説明されません。

今回はその一つ、サミュエル・L・ジャクソン演じるジュールスが作中で引用する、エゼキエル書25章17節の意味について考察したいと思います。

※この記事の内容はあくまで私個人の意見です、またネタバレありとなっていますのでご了承ください。

監督・脚本:クエンティン・タランティーノ 
原案:クエンティン・タランティーノ/ロジャー・エイヴァリー

キャスト:ジョン・トラボルタ/サミュエル・L・ジャクソン/ユマ・サーマン/ブルース・ウィリス/ ハーヴェイ・カイテル/ティム・ロス/アマンダ・プラマー/ヴィング・レイムス 他

公開1994年 上映時間154分

ギャングのビンセントとジュールスは組織を裏切った青年の家を訪れ、盗まれたトランクを取り返す。また、ボスから愛妻ミアの世話を頼まれたビンセントは彼女と2人で夜の街へ繰り出すが、帰り際にミアが薬物を過剰摂取し昏睡状態に陥ってしまう。一方、落ち目のボクサーであるブッチは八百長試合を引き受けるが裏切って勝利を収め、恋人とともに街から逃亡を図る。

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エゼキエル書25章17節はジュールスとヴィンセントが、ボスを裏切った青年の家を訪れたシーンと、強盗がレストランを襲うシーンの二つの場面で合計三回、ジュールスの口から語られます。

まずはジュールスが聖書から引用する、そのエゼキエル書25章17節の中身について改めておさらいしたいと思います。

心正しき者の歩む道は心悪しき者の利己と暴力によって行く手を阻まれる。

愛と善意を持って暗黒の谷で弱き者を導くその者に神の祝福を。

彼こそ兄弟を守り迷い子たちを救う者なり。

私の兄弟を毒し滅ぼそうとする者に私は怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす。

私が彼らに復讐をなす時私が主である事を知るだろう。

以上がその内容です。

余談ですが実はこのセリフは、実際のエゼキエル書の内容と大きく異なります。本当に書かれているのは「私は怒りに満ちた懲罰をもって~」以降の内容だけで、前半部分は千葉真一主演の映画『ボディーガード牙』のアメリカ版の冒頭に流れるナレーションが元ネタらしいです。

それはともかく何故、タランティーノ監督は聖書の一節を述べるシーンを登場させたのでしょうか。

彼の作品には本筋とは無関係な会話シーンが多いと言われています。なのでこの内容も一見すると意味のないセリフの一つに思えます。

しかしこのエゼキエル書の引用のシーンに関しては、ちゃんと意味があると考えています。

結論から述べるとエゼキエル書の一節が登場する理由は、その内容がストーリーの伏線になっているからです。その根拠について説明しましょう。

エピローグでジュールスは強盗のパンプキンから銃を取り上げると、再びエゼキエル書の一節を述べ、その内容に登場する弱き者に当たるのが強盗のパンプキン、そして心悪しき者に当たるのはジュールス自身であると語ります。

彼の発言から分かる通り、パルプ・フィクションの登場人物の多くはエゼキエル書における、弱き者心悪しき者、そして心正しき者(迷い子たちを導く羊飼い)に当てはめる事ができます。では他のキャラクター達はどれに当てはまるでしょうか。

まずはパンプキンと一緒に強盗を行ったハニー・バニーも当然弱き者になると思います。他にはブッチの彼女のファビアンも同じく弱き者に当たりそうです。

またジュールスと同じくギャングであるヴィンセントやボスのマーセルスは心悪しき者だと考えられます。

ではジュールスのセリフからでは唯一明言されない存在、心正しき者(羊飼い)に当たるのは誰でしょうか。おそらくそれはブッチであると思います。

この映画は三人の人物を別々に描いたストーリーが交錯する構成で、その内の一つThe Gold Watch(金時計)の主人公がブッチです。

彼は先祖から代々受け継いだ金時計のために危険を冒します。さらにその過程で自分を始末しようとしたマーセルスをヘンタイ男達から助けます。

この様に彼の行動の多くは彼の正しき心によって行われています。

しかし彼が心正しき者だと説明されて疑問に思う人もいるでしょう、なぜなら彼はジュールスやヴィンセント同様、殺人を犯しているからです。

確かに彼は作中で三人も人を殺めていますが、それらは試合中の事故だったり、自分の身を守るためだったり、誰かを助けるためだったりが理由で、明確な悪意によって行われたものではありません。

だからブッチは心正しき者に当たると考えられます。

ブッチが幸運な理由

またブッチには作中で様々な幸運な出来事が起こりますが、これもエゼキエル書のある一節の心正しき者についての内容に当てはまります。その一節とは『愛と善意を持って暗黒の谷で弱き者を導くその者に神の祝福を』の部分です。

つまり彼がツイているのはたまたまではなく、神の祝福を受けているという演出なのだと思います。

またエゼキエル書には他にも『私の兄弟を毒し滅ぼそうとする者に私は怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす』ともあり、これはブッチがヴィンセントを始末したシーンの事を表していると思われます。なぜならヴィンセントはブッチに悪態をついて彼を怒らせているからです。

以上の理由からジュールスが語るエゼキエル書の一節はストーリーの伏線になっていると考えました。

最後にこの作品のテーマについても考えてみたいと思います。

パルプ・フィクションでは悪い事をした人には罰が下り、良き事をした人には幸運が訪れます。マーセルスを裏切った青年グループはジュールス達に始末されてしまいますし、逆にジュールス達をかくまったジミーにはマーセルスから贈り物が送られます。

つまりこの映画を通して伝えたい事は、善い行いを心がけましょうという事だと思います。なぜならそうすれば周りから感謝されるかもしれないし、反対に悪い事をすれば仕返しされるかもしれないからです。

それから本作では自分の行いを改める事も重要だと伝えています。

ジュールスは神の奇跡を目の当たりにして自分の生き方を変えようとしますが、ヴィンセントはそんな彼を鼻で笑います。

しかもヴィンセントは弾丸が当たらなかった事の他に、心停止したミアが蘇るという二度目の奇跡を体験したにもかかわらずその意味を深く考えようとはしません。

だから彼は最終的にブッチによって怒りに満ちた懲罰をもって復讐されることになります。

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